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インカムゲインとは

インカムゲインとは、証券からの収入のうち 配当や利息などによるもの。 に、ボゴタ近郊のエル・アブラ("El Abra") の遺跡で先史文化の萌芽が見られる。中央アメリカから渡ってきた諸族の影響が大きくトウモロコシも彼らによって持ち込まれたが、巨大な石造建築は持ち込まれず、独自に生まれることもなかった。サン・アグスティンの遺跡も恐らく彼らによるものだと思われている。 紀元前1000年、アメリカ・インディアンのグループは南アメリカでインカ帝国に次いで最も優れていたといわれる行政システムであったカシケと呼ばれる首長による一種の首長制国家群("cacicazgos")を発展させた。その好例をチブチャ系のムイスカ、タイロナ、カリマ、キンバヤ、シヌーなどの部族とその文化に見ることができる。紀元前300年ごろ、現在のニカラグアに相当する地域からチブチャ系の人々が渡って来てからは、以降彼らを中心に独自の文化が育まれた。 にボゴタ盆地に居住していたムイスカ人は発展の度合が高く、定住農耕によりトウモロコシとジャガイモを栽培し、カピバラの一種を家畜化して、生産物を低地民のコカや木綿と交換することにより生計を立てていた。 クリストバル・コロンのアメリカ大陸上陸西暦1500年に、ロドリゴとバスティダスに率いられたスペイン人探検家がカリブ海沿岸を訪れるとそれに続いて1502年、クリストバル・コロン( クリストファー・コロンブス)はカリブ海とチョコ(Choco)の西岸を航行する。 1508年、それまでにパナマ地峡を征服していたバスコ・バルボアはウラバを征服し始める。1513年、ヨーロッパ人は太平洋を初めて発見し、Mar del Surすなわち「南の海」と名付けると、続いてペルーとチリに到達する。1525年にアメリカ大陸最初のヨーロッパ人の町サンタ・マリア・ラ・アンティグア・デル・ダリエン(Santa Maria la Antigua del Darien)を今のチョコ県に建設する。その地域の先住民族は、チブチャ系(Chibchan) とカリブ系(Karib,今のカリブ族)が多数を占めていたが、最大の王国だったムイスカ族のバカタ王国が征服者ゴンサロ・ヒメネス・デ・ケサーダにより征服された結果、病気、搾取などによりの著しい人口減少が起こった。ムイスカ人の首都バカタはサンタフェ・デ・ボゴタと改名され、以降スペイン人の統治の拠点となる。 ipoはアメリカ征服後、どの地域でもそうしたように16世紀になると アフリカから奴隷を送り込み始める。その後カルタヘナ・デ・インディアスはペルーからの黄金の積出し港となり、富を狙ってのジャマイカを拠点にしたイギリスからの攻撃が激しくなった。スペインはイギリスからの防衛のために1717年にアンデス北部を ヌエバ・グラナダ副王領として、ペルー副王領から独立して組織した。この副王領は資金不足により一端廃止されるが、1739年に再び北部南米をベネスエラなどと共にヌエバ・グラナダ副王領が再編され、サンタフェ・デ・ボゴタに首都を置いた。しかし、その後も カルタヘナなどの都市に対してイギリス海軍や海賊の攻撃は続き、現在も城壁が残っている。 1781年ソコーロで増税に反対したクリオージョ達がコムネーロスの反乱を起こした。これはメスティーソやインディヘナをも含めた人民蜂起であり、革命委員会(コムン)が結成されたためにコムネーロスと呼ばれたが、結局は増税の実施が見送られてこの反乱は終結した。 アントニオ・ナリーニョ 個人向け国債の会議でのフランシスコ・デ・パウラ・サンタンデルとシモン・ボリーバルをはじめとするコロンビア独立の志士たち19世紀はじめにはじまったベネスエラや、ラ・プラタ地域での独立運動と呼応してこの地でも独立戦争が始まり、スペイン軍と独立派の死闘が繰り広げられた。独立運動は10年以上に及んだ。 1806年からフランシスコ・デ・ミランダに率いられた解放軍により、隣のベネスエラ総督領から解放戦争が始まったことを受けて、ヌエバ・グラナダでも独立戦争が始まった。1810年7月、アントニオ・ナリーニョが副王を追放してサンタフェ・デ・ボゴタを中心にクンディナマルカ共和国のスペインからの独立を宣言した。同時にカルタヘナがカルタヘナ共和国の独立を宣言して、すぐにカルタヘナを中心としたカリブ海側の五州がヌエバ・グラナダ連合州として合流した。 資産運用のボゴタの議会でボゴタ以外の地方諸州とボゴタはヌエバ・グラナダ連合州としてナリーニョの下に合流し、軍隊の指揮権と全体の指導権をボゴタが持つことを認められた。ナリーニョとフランシスコ・デ・パウラ・サンタンデルは1812年に崩壊したベネスエラ共和国を代表として抵抗を続けていた、シモン・ボリーバルを統領とするベネスエラ人独立勢力らと協力してスペイン軍と戦い、ボリーバルも1813年にはベネスエラを再び解放するが、本国でのフェルナンド7世の反動的復位によってスペイン軍は再び勢力を増した。連邦派(カルタヘナ派)と集権派(ボゴタ派)の不一致を突かれる形で1814年2月にはボゴタが陥落し、ナリーニョはスペインに連行され、投獄されてしまった。ボリーバルはその後カリブ海側のカルタヘナを拠点にスペイン軍と戦いボゴタを奪還したものの、1815年6月にカルタヘナで起きた王党派の蜂起に敗れ、辛うじてイギリス領ジャマイカに逃れた。1816年5月、スペイン軍の攻撃によりボゴタは陥落した。 しかし、ボリーバルはジャマイカで有名なジャマイカ書簡を書いた後、イギリスなどと友好関係を結んで援助を受けることに成功し、さらにハイチに渡ってハイチ南部を支配していたアレクサンドル・ペション大統領に、ラテンアメリカの解放後、黒人奴隷を解放することを条件に物心両面の援助を受けた。1816年にはまたもやベネスエラに上陸したが、ジャネーロの協力を取り付けただけで敗れてしまい、ハイチに引き返すことになった。そうこうしているうちにボゴタが陥落してしまったが1817年、今度は準備を整えてベネスエラに再侵攻し、スペイン軍の裏をかいてまずヌエバ・グラナダを解放しようとした。ベネスエラのアンゴストゥーラが解放された後、1818年にはジャネーロ(オリノコ川流域の平原部=リャノに住む、牧童たちのこと。ベネスエラのガウチョ)の頭目だったホセ・アントニオ・パエスの力を借りることに成功し、1819年にはアンゴストゥーラを臨時首都としてのベネスエラ第三共和国が再建され、コロンビア共和国も創設された。 1819年8月のボヤカの戦いに勝利するとボゴタが解放され、ヌエバ・グラナダも最終的に解放されて、ボリーバルはコロンビア共和国の建国を正式に宣言し、コロンビアの首都も改名されたボゴタに定められた。こうしてボリーバルはヌエバ・グラナダを拠点に故国ベネスエラの解放を進め、1821年にカラボボの戦いでの勝利によりカラカスが解放されると、ベネスエラも最終的に解放され、両国は改めて正式にコロンビア共和国を形成した。1820年には解放されたグアヤキルが、1822年にはキトが併合され、このコロンビア共和国は現在のコロンビア、ベネスエラ、エクアドル、パナマの全て及びペルー、ガイアナ、ブラジルの一部を含む北部南米一帯を占める大国家となった。 ボリーバルがペルー・ボリビア方面の解放に向かう中、1821年9月、ヌエバ・グラナダ人で、ヌエバ・グラナダを代表してボリーバルの副官を務めていたサンタンデルはコロンビア共和国の副大統領となり、不在の大統領に代わってヌエバ・グラナダを治めていたが、1827年のボリーバルの帰還後、コロンビア共和国を集権的にまとめようとするボリーバルと、連邦的な要求をするサンタンデルや、ベネスエラを支配する アントニオ・パエスの不満は大きくなっていった。サンタンデルは1828年にはボリーバルの暗殺を謀ったため亡命した。さらにキトを巡ってのコロンビアとペルーの戦争も起き、もはやボリーバルの威信の低下は明らかであった。その後もボリーバルはコロンビアの分裂を回避すべく統治したが、上手く行かず、ベネスエラが独立を要求した。コロンビア共和国の維持は解放者の力量を持ってしても不可能かと思われた。 1830年にエクアドル(旧「南部地区」。キトとグアヤキルとクエンカが連合して赤道共和国を名乗った)と、故郷ベネスエラはパエスの指導下で完全独立を果たし、南米大陸統合の夢に敗れ、自分の政治的な努力が全て無為に終わったことを悟った解放者は終身大統領を辞職し、ヨーロッパに向かってマグダレーナ川を下る中、サンタ・マルタ付近で失意内に病死した。翌1831年にラファエル・ウルダネータ政権が崩壊すると同時にコロンビア共和国も崩壊し、残存部がヌエバ・グラナダ共和国として再編成を図った。